美容室プレジール スタッフ紹介
こんにちは、プレジール店長の大島一浩です。
昭和41年6月生まれの埼玉育ち、血液型O型
2世帯住宅に住む、6人家族2児の父です。
好きなモノは、車、バイク、スキー、海など
施術が終わって、お帰りの時にキレイな事は
当たり前、
次回来店時にどれだけ傷んでいないか
どれだけ健康な状態に近づいているか
そこに、こだわりを持っています。
得意な技術は朝のスタイリングが2分
で出来る簡単パーマスタイルです。
コンクール歴などのプロフィールは
一番最後に書いてありますので、
気になった方は、お読みください。
こんにちは。
おもにアイデザイン及びフェイシャルエステを
担当している、おしゃべり大スキ
声の大きな2児の母、大島順子です。
昭和52年6月生まれのA型
人と接することがスキで、結婚前は
金融機関で窓口業務をしていました。
結婚後、着付けの資格をとり
成人式や卒業式などの着付けも
担当しています。
お着物・・・ステキですよね!
たまにはお着物でお出かけ~🎶
いかがですか?
美容室プレジール代表
ちょっと照れ屋な
「髪、肌を10歳若返らせる」美容家の
大島一浩と申します。
プロフィール
1966年6月埼玉県生まれ、
3人兄弟の長男、小中高と埼玉で育つ
中学の頃、父親が病気のため、
長期入院、高校2年の頃に退院したが、
障害を背負ってしまったため、
中高5年間していた陸上
で大学をめざしていたが、
進路変更をすることになる。
色々迷っていた時、
高校の仲良くしていた同級生の姉が、
美容学校の先生をしているということで
紹介され、
少し浮ついた気持ちで見学に行った。
1年で資格が取れ、
働けるということで、
通うことに・・・
正直、最初は、
「なんてつまらないんだろう」
と思っていた。
だが、カットの授業になった時、
とても楽しくなり、
下手なりにも、
自分で形作れるということが、
もっと、
自在に切れるようになりたいという
思いに変化
私が「美容師」に目覚めた瞬間だった。
卒業後、埼玉、東京と3店舗経験、
そのなかで、技術の向上を図るため
コンクールに出場、95,96年
ロレアルパーマトロフィー全国大会出場
98年
HIKARI CUP<wig category>campion
ヘアーショー、
グルービーセッション出場などを経験し、
37歳の頃、さいたま市で独立、
「美容を通して、お客様が若々しく、
生活が楽しくなれる」
という思いで、店名を「プレジール」とする。
大島一浩物語
美容学校を卒業後、こじんまりとしたサロンに就職するも、
お客様との会話が出来ないことの悩みから2年で退職、
「そう!嫌なことから逃げてしまったのだ」
その後、トラックに乗り、引っ越しや宅配の仕事をする。
でも・・・
「面白くない」のだ。(お金は、稼げたけれど!!)
半年ほどたった頃、美容学校の同窓会で、
先生も来ていたので、相談したところ、
大島さん!この仕事は、「やる気・根気・ラッキーよ!!」
学生時代言われ続けた言葉だった。
その言葉を聞き、あの頃の「楽しい気持ち」を思い出し、
また美容の世界に戻ったのだ。
カットが好きだったわたしは、
そこで、初めて母校のカットコンクールに出場、
「ドキドキ!手が震えた」でも、
全国理美容新聞社賞を取ることが出来た。
うれしかった!!
そのことがきっかけになり自信となり、仕事がもっと楽しくなった。
4年がたった頃、会社都合で辞めることになる。
次のお店は20数人規模のお店だった。
なぜ、そこにしたのか!
それは、面接に行ったときのスタッフの行動を見て
自分がここで働いたら、「もっと成長できるという
想像が容易にできた」だから、そこに決めたのだ。
最初は、スタッフの技術の速さ、正確さに驚き
「早く自分もうまくなりたいと思い」あせりもしたが、
「そうだ、もっと基礎をしっかりしよう」と思い直す。
そうこうするうちに、2年がたち、チーフを任されるようになった。
そこで、「今の自分は、どのくらいの実力があるんだろう」
と思い、技術コンクールに出ることにした。
久しぶりのコンクールだったので、練習量を増やし、
深夜になってしまうことも・・・
そのかいあって、東京予選を優勝し、
ロレアル技術コンクール(パーマトロフィー部門)全国大会へ出場できた。
そして、店長に就任、翌年も全国大会へ2年連続の出場を果たす。
最後のチャレンジが98年HICARI CUP<WIG CATEGORY>準優勝
さらに、ヘアーショーなどに参加し、いろいろな経験をする。
その後、11歳年下の女性と結婚
しかし、通常の営業で、とても気になることがあった。
「いい物をを使っているはずなのに」
「なんで、髪の毛が傷んでしまうんだ?」
「何が、悪いんだろう。。。」
「自分の知識が足りないせいだ」「もっと髪を勉強しよう」
知識が増えて行くと、現状が少しずつ見えてきた。
「このままでは、だめだ!」
社長に現状を報告、改善の提案をするも受け入れられなかった。
「もう、自分でやるしかないか」
結婚し生まれて間もない子供がいた私は、
すぐに辞めるわけにもいかず、
1年ほど、悶々とした日々を過ごした。
いよいよ独立!!
オープンそうそうから、好調な滑り出しだったが、
2か月めに事件が・・・
3人のスタッフが急にやめることになってしまった。
自分が悪いのである。
叱ればいいものを、怒ってばかりいたのだ!
「して欲しいことが分からないのは、当たり前
まだ、一緒に働いて日も浅い」
わかってはいたのだが、できなかった。
「早く軌道に乗せたい!」
この思いが強すぎた。
後悔先経たずだ!
でも、落ち込んではいられない、
後輩、友人、知人に電話をかけまくる。
「たのむ!!誰かいてくれ」
1人だけ、次を見つけているという後輩がいた。
「あと1か月待ってください、そしたら、行けます。」
「あ~!よかった!助かった」
人の大切さを芯から感じた。
その1か月、死ぬ気でがんばった。
それでも、家族やお客様には、迷惑をかけてしまったが!
がんばった後には、いいことがあるものだ。
ある商材との出会いから、
かねてからの願いだった、パーマ、カラーをしたら、
「髪がツヤツヤで、思わず触れたくなるような髪」に
出来るようになってきたのである。
その後は、自分の理想としている
「髪は思わず触れたくなるほどツヤツヤ、肌は10歳若々しく良くなり
お客様の生活が楽しくなる美容室」
に徐々に近づいて行ったうえ、第2子を儲ける
順調に売り上げもあがり9年目を迎えたが、
ここで、また事件が・・・
今度は、自分の体が悲鳴をあげたのだ。
その夜家に帰って、靴下を脱ぐと、
見慣れない、象さんのような足がそこに・・・
触ってみる、低反発まくらみたいだ!
「やばいよなこれ!!」
翌日、急いで病院へ・・・
「すぐに、入院してください!!」
先生!それは、難しいです、1か月延ばすことは出来ませんか?
美容院をしているので、予約が入ってしまっているんです。
「わかりました。。」「ただし、何か変化があったら、
すぐに、電話をください」
結局、2か月入院した。
「どうなっちゃうんだろう」「前の様に働けるのだろうか?」
「今のままの広さの店舗を借りていくことが、出来るのか?」
5歳の娘には、「パパ、いつ帰ってくるの?」辛かった!
悩んだ!
悩んだ末、「もう、周りに迷惑はかけられない」
「できる範囲でやろう!!」と考え、移転することにした。
入院した状態で、店舗探しから、内装の手配まで、
なるべく、費用をかけないように、考える。
叔父が大工だったので、内装を頼み、
使う材料(床、壁、塗料など)を自分で探し、
発注することで、費用をおさえた。
退院後、引っ越しから床の塗装まで、出来ることは自分でした。
あっという間に、新店舗開店を迎えた。
最近ようやく、自分のペースがつかめてきた。
「やっぱり、自分は美容の仕事がすきだ!」
そして、この思いだけは、忘れない。
あの頃、自分の知識不足や未熟な技術で髪を傷めてしまっていた。
「なんで。。。 どうしたら。。。」
その思いがあるから、
「髪は思わず触れたくなるほどツヤツヤ、肌は10歳若々しく良くなり
お客様の生活が楽しくなる美容室」
をコンセプトに独立したのだ。
今では、「髪がツヤツヤに良くなりたくて、通ってる」という声も頂けるようになった。
本当に楽しく、仕事をさせてもらっている。
目標は、「生涯で1万人のお客様の髪を思わず触れたくなるほどツヤツヤに
肌は10歳若々しく良くすること」